人間ドックについて

遺伝子検査普及前に

各施設自らのポリシーを固めておく必要性

本文

C.elegansという学名の小さな線虫ではありますが、世界で初めて多細胞生物の遺伝子の全容が明らかになった、と言うニュースをご覧になりましたでしょうか。 なんだ、小さな虫の話じゃないか、などと言わないでください。科学誌「サイエンス」の1998年12月11日号の表紙はこの線虫が飾ったのですから。

C.elegans では、1万9000個強からなる遺伝子の約40%が、人間を含む他の有機体のものと一致するといいます。そのため、このちっぽけな線虫の構造を調べることが、ヒトの遺伝子構造解析に大きく役に立つことになるわけです。人間の遺伝情報をすべて解読することができれば、遺伝子の変異がもたらす様々な病気の治療に革命的な進歩をもたらすことができると考えられています。例えば、ワシントン大学の研究者グループを率いるロバート・ウォーターストンによると、今回の線虫解析プロジェクトはすでに、アルツハイマー病を引き起こす遺伝子の働きを解明するのにも一役かっているといいます。(以上、MSNニュース&ジャーナル「遺伝子のマップ作りに大きな前進」より一部省略して引用)

ヒトゲノム計画という、ヒトの全遺伝情報を解読しようという壮大なプロジェクトがありますが、これすらすでに50%以上終わっているといいます。早ければ、 2003年には終了するとの見通しです。これを睨んで、すでに特定の遺伝子を検査するキットの開発に取り組んでいる会社が数多くあり、大腸癌のように発癌遺伝子が分かっているような病気では、遠からず500ドルもかからずにスクリーニング検査が出来るようになるでしょう。あるいは、糖尿病、高脂血症、その他いろいろの病気の発症危険率がかなり正確に、遺伝的負荷を調べることによって、個人ごとに予測できるようになるかも知れません。「あなたは体重を85キロに増やすと、糖尿病に65%の確率で罹るでしょう」とか、「あなたは体重が100キロになっても糖尿病にはならないでしょうが、その代わりこの病気で困ることになるでしょう」といったようなことが言えるようになるかもしれないわけです。そうなれば、標準体重を元に画一的な指導をしていた人間ドックも、より個人個人の実情に合った指導に変えていかなければならないでしょう。

そのような利用法であれば、問題はないはずです。単に、ある遺伝的な病気の診断をしたり、将来の発症確率を予測したり、環境因子や肥満、生活習慣の個人ごとに異なる影響を予測したりすることそれ自体が悪いわけではありません。結果がその人のためになり、診断・治療や生活改善の資料として使われるのであれば、こうした遺伝学的検査は人間ドックの目的にもかなうものです。従来、人間ドックは集団医学の土壌に乗ってきましたが、個人ごとに最適な適用をしていく上では、画一的になりがちだとの批判を浴びてきました。それに対する回答として、個人個人に適合した健康診断を目指す上で、これらの遺伝学的検査は有力な武器になるであろうことは確かです。

しかし、こと話が遺伝学的なものになると、人間は特殊な態度を取ろうとします。あらゆる遺伝子は、たとえ病気をもたらすものであっても、生物学的、倫理学的には等価なはずです。糖尿病になりやすい遺伝子を持っていたからといって、その人が劣った存在と見なされて良いはずはありません。まして、進学、結婚、就職等の差別の道具にされて良いはずはありません。

ところが、現実には血縁者に一人でも白血病の人がいれば、その縁談は破談になることが多いようです。通常の接触では感染しないHIVのようなウイルスでも、陰性反応を就職の条件にする例があとを絶ちません。労働省が雇い入れ時の検診にHIV抗体を測定するべきでない、としていても、です。実際に健康診断をしておりますと、こうした問題者を排除するためのHIV抗体やHBs抗原、果てはATLウイルスの検査依頼が結構あります。しかし、そのような事態が予想されるから検査しません、と断った健診施設や医療機関の話を聞いたことはありません。本人が承諾の上、と言われれば断れないのも確かです。

ウイルス性の病気でもそうなのですから、まして、遺伝子の問題になると、排除の論理が今以上に強くならないか、そして、問題者を排除するための健康診断の依頼を断れるのか、プライバシーの保護は可能なのか、人権侵害の可能性のある目的のための検査を規制できるのか、など、心配の種はつきません。せっかくのテクノロジーが純粋に病気の予防と治療にだけ使われる保証がないのが気掛かりです。

遺伝学的検査のためのキットが安く大量に供給される時代は、もう間近に迫っています。それまでに、各健診施設と医療機関は、自らのポリシーを固めておくべきでしょう。少なくとも、HIVの時の混乱を繰り返さないために。