恋愛に生きるか趣味に生きるかのベクトルモデル

8月3日付の日記で紹介いたしましたLoveless zeroというサイトに、恋歴社会に生きるという記事がありますが、その記事では、複数の価値軸の元で価値観と達成度をベクトル化し、幸福度は価値観ベクトルと達成度ベクトルの内積である、というモデルを使って議論を進めていました。ベクトルがこのようなことを考えるのにも使えるという点で、これはなかなか面白いモデルだと思います。

しかし、多次元ベクトルという点で、今一つ抽象的な感じがします。そこで、価値観を構成する要素を二つに絞ったモデルを考えてみました。恋愛に生きるか趣味に生きるか、家庭に生きるか仕事に生きるか、といった二元的対立を仮定します。一方をX軸、もう一方をY軸とします。この時、世間一般の価値観を表すベクトルを、ある個人の本音を表すベクトルを、世間の目と本音の折り合いをつけた結果出来上がった個人の価値観を表すベクトルを、その個人が現実に達成し獲得したものを表すベクトルをとします。このときの個人の幸福度はに投影した時の線分OEの長さとなります。ただし、ベクトルOEがと逆方向になった時は数値をマイナスとします。

図1 ある個人の初期状態
図2 第1の道(普通になる)
図3 第2の道(自己の肥大化)
図4 第3の道(自分の世界に没頭)
図5 第4の道(天邪鬼になる)

図1は、X軸を恋愛、Y軸を趣味*1とした時に、ある個人*2の初期状態をモデル化したものです。オタク趣味なんか程々でいいから恋愛を楽しむべきだ、という世間の圧力に対し、本音ではちょっぴり反発を感じてはいますが、それはまだ大きいものではありません。現実には極度の恋愛下手で、ストレスも手伝って趣味でもそれほど成果が上がりません。その結果、幸福度はかなりのマイナスとなっています。

これでは生きていくのがさぞ辛かろうと思います。このままでは自殺したくなってしまうかもしれません。どのようにそれを回避すべきでしょうか。

第一に考えられるのは、図2のように世間の価値観に歩み寄って本音を表すベクトルを矯正し、さらに訓練によって恋愛下手を克服し、恋愛における達成度を引き上げての角度を小さくする、という解決法です。なるほど、普通になることで問題は解決し、そこそこ幸福になれるでしょうが、自分の価値観を曲げてさらに世間の期待するように達成度を上げる道のりは、これだけ世間の期待と外れた人生を送ってきた者にとっては、さぞ苦難に満ちたものになることでしょう。

次に考えられるのは、自己を肥大化させて、本音で生きる部分を増やすことです。しかし、世間の圧力としてのベクトルとの葛藤は続くため、思ったほど価値観ベクトルに接近しません。図3のように自我を3倍に肥大させてなお、得られる幸福感はほんのちょっぴりにとどまります。筆者を含めたオタクが余り幸福になれない所以かもしれません。

そこで、世間の目なんか忘れて、完全に自分の世界に没頭したとします。つまり、図4のように個人の価値観を表すベクトルを完全に肥大した自己の本音を表すベクトルと一致させてしまうのです。世間で何が起ころうと自分は自分、というのです。こうなれば、完全に新人類として生きることが可能となります。ベクトルOEもと同方向なので、自覚的にもそこそこ幸福になれるでしょう。しかし、このような完全に非社会化した存在に対しては、世間の冷たい問いが待っていることでしょう。

そんなんで生きてて楽しいの? 」

このような存在がさらに究極化すると、図5のように社会の価値観がすべて逆方向に働き、世間一般の価値観を表すベクトルを反転させた-aと肥大した自己の本音を表すベクトルとの合成で個人の価値観を表すベクトルが決まってしまうようになってしまいます。こういう人を世間では天邪鬼といいますが、こうなってしまっては社会復帰など考えられません。犯罪を犯さないよう祈るばかりです。

恋愛に生きるか、趣味に生きるかの二項対立を仮定し、ベクトルモデルを導入した思考実験でしたが、なかなか楽しめました。この程度の数学を用いたモデルなら、自然科学者ではない筆者にも十分楽しめます。そして、中年のオタクが余り楽しそうに見えない理由も何となく分かった気がします。本当に分かったかどうかは別の問題ですが……。


*1 趣味:この場合はオタク道?

*2 ある個人:筆者自身と思ってもらっても当たらずと言えども遠からず。