変われない沖縄、でももう少し保守には声を上げて欲しい

『変われない沖縄』が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題」にこんな一節があった。

沖縄人は、あらゆる手段を用いてNOと言うことを避けようとする。沖縄では相手に直接NOと言うくらいならば、空手形を切ったり、約束をすっぽかしたり、曖昧に引き延ばしたり、返事をしないで放置する方が、人間関係のダメージが少ない。

沖縄社会の年長(シージャー)主義は絶対で、それがどれだけ理不尽なものでも、親の言うことに背けば、親類縁者全員に対する「裏切り」とみなされることを覚悟しなければならない。

沖縄社会に生きる人たちは、発言するときに、自分の考えを表明するよりも、他人がどう感じるかについて、慎重に間合いを取る傾向が強い。

「『変われない沖縄』が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題」 より

確かに、外から見ているとそういう感じがする。北海道とはずいぶん土地柄が違う。「内地」が怖いという感覚は共通かもしれないが、北海道人は基本的に自由主義的で個人主義的かつ合理主義的で、血縁の柵も気にしないから離婚も多い。沖縄も離婚が多いが、北海道とは事情が違いそうだ。

北海道との違いはさておき、筆者はさらに「オール沖縄」について次のように述べる。

戦後70年間でつくりあげられた沖縄社会の基本的なルールは、「物事を変えてはいけない」ということと、「新しいものを生み出してはいけない」ということだ。この重大なルールは、人間関係のみならず、教育やビジネス、行政、社会運営の基本動作、そして「オール沖縄」の運動にも大きな影響を及ぼしている。それどころか、「オール沖縄」は、この社会規範が動かしていると言っても差し支えないかもしれない。「オール沖縄」を中心とする現在の沖縄の政治的潮流を、このような沖縄の社会的、文化的な背景と重ねて理解すると、意外な側面が見えてくる。

翁長知事の政策は、辺野古新基地反対であることを除けば、ほとんど前仲井真県政時代と同じだと指摘されている。この現象を素直に解釈すると、「オール沖縄」とは、基地反対運動と言うよりも、壮大な現状維持運動と言うべきではないだろうか。「物事を変えてはいけない」「新しいものを生み出してはいけない」という沖縄社会の重要2大ルールに完全にのっとって政策を進めているように見えるのだ。

「『変われない沖縄』が生まれ変わるために(樋口耕太郎)|ポリタス 沖縄・辺野古――わたしたちと米軍基地問題」 より

そうなのかもしれない。しかし、これを外から見ると、いつまでも社大党や共産党が政治的影響力を持ち、県知事が「民族自決」を主張しても反対の声が小さい、沖縄県民は左翼の目標である沖縄独立と中国の属国化に暗黙の了解を与えているようにしか見えないのだ。

もし県知事や左翼陣営が正しくないと思うのなら、声を上げないと、本土の人には理解されない。その結果、沖縄は本土と対決して民族自決権を行使しようとしていると思われてしまう。実際に私はそう考えて沖縄に対して身構えているところである。

石垣市長や石垣市議会、八重山日報や我那覇真子氏のように「沖縄は紛れもなく日本である」という主張があることは私も理解はしているが、今までは本島と八重山諸島の対立構造としてしか捉えて来なかった。だが、本島でも少なからぬ人が本土よりも強い日本への帰属意識を持っていると伝え聞いている。それならば、親類縁者や年長者、権威者がどう言おうともう少しだけ保守には大きな声を上げてほしい。そうでないと、私のように沖縄に対する警戒心と敵対心を抱えたまま、台湾、フィリピン、ベトナム、インドネシア、トルコ、ポルトガルといった諸国よりも韓国、北朝鮮、中華人民共和国に近い存在として沖縄を見る人がだんだん増えていくと思う。