乗車報告(2005年2回目)

2月9日の朝、JR CYBER STATIONで寝台特急「さくら」の空き状況を見ていたら、廃止寸前だけあって休日・休前日や最終日の2月28日などは軒並み×印だった。3月1日のダイヤ改正で廃止になる列車の中ではいちばん有名な列車だけにさもありなん、と思ったが、2月10日のところだけ△印になっていてどうもキャンセルが出たようだ。えきねっと|旅やチケットのご予約でひょっこり予約が取れてしまったので、元々2月13日に「いそかぜ」に乗りに行く予定だったのを繰り上げて急遽出かけることにした。

2月10日は平常通りの勤務なので、時間に余裕がない。仕事を大急ぎで片付けたが、それでも17時20分までかかってしまった。そんな関係で、今回の行程は途中益田まではかなりの駆け足である。

  • 2005年2月10日
    • 普通川崎行:武蔵溝ノ口1744→川崎1807:モハ204-55
    • 普通小田原行:川崎1815→横浜1823:モハ200-8
    • 特急「さくら」長崎行:横浜1828→小倉0858:オハネ15 4
  • 2005年2月11日
    • 特急「いそかぜ」益田行:小倉0904→益田1159:キハ181-31
    • 快速「萩・津和野」津和野行:益田1248→津和野1325:キハ58-1026
    • 普通益田行:津和野1652→益田1735:キハ40-2075
    • ANA576便羽田行:萩・石見空港1845→羽田空港2005
    • 特急浦賀行:羽田空港2024→京急蒲田2034:1522
    • 快特三崎口行:京急蒲田2040→京急川崎2043:603-4
    • 普通登戸行:川崎2113→武蔵溝ノ口2133:クハ205-26

「さくら」にて

発車後すぐに、九州行きの寝台列車のうちまだ「さくら」と「富士」には乗ったことがなかったのを思い出した。元々長崎、大分、宮崎などには滅多に行く機会がなく、福岡や熊本に行くことは多少あったのだが、健康診断のアルバイトや学会出張だったので時間に余裕がなく、結局九州方面の「ブルートレイン」には、ほとんど乗れずにいた。

「さくら」は昭和34年に「平和」を20系化(ブルートレイン化)した際に付けられた列車名だが、元はと言えば日本最初の列車名として有名な列車名で、ブルートレインの全盛期には人気列車だった。食堂車のメニューの皿うどんが人気だったと言う話を聞き及んでいるくらいである。

しかし、今では「はやぶさ」と東京−鳥栖間を併結され、「はやぶさ」6両+「さくら」5両で両方合わせてもたったの11両。そのたった5両が埋まらずに廃止になるのかと思うと、何となく残念な気分になってしまう。「さくら」廃止のニュースには、鉄道ファン以外の年寄りの方がかえって感傷的になっているように見える。それだけある年齢以上の人には思い入れの深い列車だったわけだが、同じような感傷を持つということに、自分の年齢を思い知らされるような気がした。

しかし、ちょっと考えただけでも、東京から熊本や長崎に行くなら、割引運賃が安くて市街地に非常に近い福岡空港まで飛行機で飛んで行き、あとは高速バスで行くのが安上がりなのだから、東京−九州間の寝台列車の存在自体が非常に苦しく、今度の改正で「はやぶさ」と「富士」が併結になった1往復になってしまうのも仕方がないことであろう。

図1 「さくら」テールマーク

横浜で乗車した人の動きが落ち着いた頃、改めて「さくら」の車内を見回してみると、鉄道ファンよりも中高年が昔を懐かしんで乗っているという感じがした。祖父母と孫といった組み合わせも目に付く。昔話をしているおじいさんの会話も耳に入ってくる。「はやぶさ」の車内よりも家族連れが多い感じがした。

そんなことを思いながら、指定された寝台にもぐりこむ。横になってみると、「ゆうづる」、「出雲」、「北斗星3・4号」などで乗り慣れた二段式B寝台であるのに、「さくら」という列車名のためか、何となくいつもと違う感じがした。列車名に萌えを感じたから、というわけではないだろうが。寝心地そのものはいつものB寝台と同じだった。仮眠のような中途半端な寝心地だが、横になれるだけましである。一つの旅程で座席車で7泊*1したときのことを思えば……。

翌朝は下松到着前にいわゆるヒルネのための寝台の片付けの放送で起こされてしまった。最近は寝台を利用してもヒルネなんか関係ないような時間帯に降りることが多く、こういうのを見るのも久し振りだ。三段式B寝台の時代には解体作業で中段を跳ね上げたりしたのでなかなか見ていて楽しかったが、今では上段の位置さえ固定なので空きになった下段のベッドを整頓するだけである。寝ている人を起こすこともしないので、馬鹿正直に起きて損した気分である。

図2 「さくら」側面行先表示

下関、門司では関門トンネル通過のために機関車を付け替えるのでそれぞれ5分程度の停車時間があり、貴重な撮影タイムと化していた。ほとんどの撮影者が狙うのは「さくら」の最後尾と側面の行き先表示。門司ではホームの反対側に、折り返し小倉発益田行き特急「いそかぜ」になる181系気動車3両の編成が止まっており、「さくら」より一足先に小倉に向けて回送されて行った。この「いそかぜ」も貴重な国鉄色の181系気動車なので、撮影者たちの格好の被写体になっていた。私も下手な撮影技術ではあるが、これらを写真に記録した。図1から図3はその写真である。

「いそかぜ」にて

小倉で「いそかぜ」に乗り換える。この列車も2005年3月の改正で消え去る運命にある列車だ。国鉄色の181系気動車の最後の定期列車であり、名残を惜しむ意味で起点から終点まで通しで乗車することにした。181系気動車のエンジンの音、特にターボ音には他形式にない顕著な特徴がある。キーンと響く独特の甲高い音である。それを聞けなくなる日も近かろうと思い、乗れるうちに乗っておこうと思ったのだ。181系気動車のデビューは昭和43年の「しなの」なのだそうで、この形式ももう37年。私の年齢に近い車齢の車両が次々に引退する中、この形式に乗れるのもあと何年だろうか……。

図3 回送中の「いそかぜ」

線区自体がスピードを出せない線形なのか、ターボサウンドが楽しめたのは長門市発車直後と益田到着直前の再加速時くらいであった。174.6キロに2時間55分かかっているのだから、鈍足なのは仕方がない。しかし、車両に軋みは多いが、基本性能に不満が出るほどではなく、ローカル特急としてはまだまだ通用しそうな感じがした。181系気動車が使用に堪えなくなったから廃止と言うのではないような気がする。それならば別の形式の車両に置き換えになるはず。やはり山陰中央新報に載っていたような利用客の低迷{{利用客の低迷:米子まで直通していた頃の2001年でも、益田以西は往復で平均50人だったという。}}が響いたのだろう。乗車した列車は廃止直前とあって90%くらいの利用率だが、途中の乗降は非常に少なく、長門市や東萩でも駅に活気をもたらすほどの乗降客はなかった。廃止直前の特需が出てさえこの程度である。山陰中央新報の記事にあった50人という数はうそではなかっただろう。

悪い線形と悪い路盤の線路で必死に頑張る国鉄の、さらに言えば昭和時代の生き残りの車両が軋みを上げる度に、老骨に鞭打つ、という陳腐な表現がこの「いそかぜ」には良く似合うような気がして悲痛ですらあった。

沿線の景色はそれなりだが悪くないし、晴れた日の日本海の海面の青と緑には瀬戸内海側ではみられないきれいな透明感がある。そこそこ名の売れた観光地も経路上にある。それでも廃止に追い込まれるのだから、沿線人口がどうしようもなく少ないのだろう。観光列車にするなら週末の臨時快速の2両編成で足りる、と言うことのようだ。ちなみに、今では萩に行くには新幹線→バスがメインルートなのだそうだ。確かにこのゾーンは周遊きっぷでもバスに乗れる。しかし、そんなことでは面白くないと思うのだが。

車窓風景としては晴れた日の日本海のきれいな青と緑、そして長門市を過ぎたある山間の集落の真ん中で健気にも国旗を高く揚げている姿が印象に残った。そう、2月11日は建国記念の日。流石は保守王国山口県である。日の丸が集落の健在を誇示しているかのようであった。その気概は過疎にあっても失ってはいけないもののように思えた。3時間弱の乗車は想像以上に短く感じられた。本当はもっとスピードの出せる線区で活躍して欲しかった形式だけに、食い足りない感じが残ってしまったまま益田に到着である。

益田到着後

このまま下りの「いそかぜ」で小倉に戻っても良いのだが、石見地方自体が行く気にならないとなかなか行けない場所なので、折角なので津和野まで足を伸ばし、帰途は明日の仕事に備えて萩・石見空港を使うことにした。津和野自体は落ち着いた感じの元城下町。小京都というのは言い過ぎだと思うが、悪くはない。しかし、ここから先の話は鉄道とは別なので、本館の日記の方で書くことにする。

おわりに

SLの運転がない季節だったので今回の行程になったが、「やまぐち号」の季節なら新山口−(SL)−津和野−(普通)−益田−(下りいそかぜ)−小倉という行路も面白かったかも知れない。

ところで、路線であろうと列車であろうと廃止が発表されてから乗りに行くのは筋違いで、利用促進の一環として廃止が発表される前に行くのが筋であるとの考えがある。私もローカル線については廃止が発表されてから惜しむ暇があるのなら普段からできるだけ乗車しておくべき、との考えから、どうしても乗りたい線やどうしても行きたい駅には廃止が正式に発表される前に行くようにしていた。

しかし、今回は初めて廃止直前の未乗の列車に乗車するために出かけた。そのくらい今回の廃止列車はインパクトが大きかったのである。


*1 座席車で7泊:昭和58年のこと。下り大垣夜行、下り京都夜行=「山陰」、下り高知夜行、上り高知夜行、下り「さんべ」、上り「さんべ」、上り京都夜行の順。流石に眠くてたまらず、8泊目の夜行になる上り「だいせん」は寝台車に乗った。