不要不急というもやっと来る表現

Covid-19の流行で盛んに言われだした「不要不急」とは何なのか。不要かつ不急であることなのか、不要または不急であることなのか。辞書的には「不要不急とは必要でもなく、急ぎでもないこと。」とあるように前者を指しているようだが、国や都道府県の言いたいことは後者なのだろう。後者の立場で極端な例では、「命に関わらないことは全部不用」という趣旨で使う人も居た。これを文字通りに実行したら、家が牢獄になってしまう。

「不要不急=不要かつ不急」とする場合と「不要不急=不要または不急」とする場合の差が問題になるのは、「不要ではあるが急ぐ」場合と「必要ではあるが急がない」場合である。そして、「必要ではあるが急がない」ものが規制されると甚だしいストレスとなる。それでは「必要ではあるが急がない」ものとはどういうものなのか。

わかりやすいのは哲学、スポーツ、芸術、芸能といったものだろう。人によってはこれがないと生きていけないし、生きていたとしても生きながら死んだ人のようになってしまう。問題になった東京オリンピックもその一つだろう。私にとってはクラシック音楽やゲーム音楽などの様々な音楽がそれにあたる。ゲームや遊び、様々な趣味活動もそういったものに入る。

最近はさすがに牢獄のような生活は強制できないのに気が付いたのか、ワクチン接種や感染防止対策を条件にある程度の活動が許容されるようになってきた。だが、このカテゴリーに属する活動は、その人ごとに価値の重みが違うので、自粛警察の標的になりやすいし、どこまでの活動を許容するかが自己責任になってしまう。

「不要不急」という言葉にもやっと来るのは、この自己責任になる領域、すなわち「必要ではあるが急がない」事柄の領域があまりに広いから、という気がする昨今である。