指紋の収集に反対して

昔話になってしまうが、1972年12月、小学校6年生の時のことである。冬期休暇の自由研究の計画を発表する席で、同級生の女の子が「記念にするからクラス全員の指紋が欲しい。」と言い出した。私はたった一人で「個人のプライバシーの問題にとどまらず、犯罪に使うこともできるような指紋の収集には断固反対である。」と反対意見を曲げなかった。担任教諭は「犯罪に使われる可能性がある」と主張したことにカチンと来たようで、「お前は彼女がそんなことするように見える、というのか。」と詰問してきた。引っ込みがつかなくなっって、「そうだ。」と答えてしまった。この事件で担任教諭の私に対する評価は固まったようで、その後は「女神転生」でいうところのDark=Lawな人物、という評価*1がついて回った。中学校への内申書にも、要注意人物である、と書いてあったと中学校の担任教諭が教えてくれた。

しかし、多少生意気なのが当たり前の中学校では特にそのような言動が問題視されることも無く、中学校では非常に平和に過ごしていた。1973年の5月、小学校の同級生から、それまで親しかったわけでもないのに、ご馳走するから家に来て、と招待が来た。行ってみると、指紋の収集に抵抗してくれたことを感謝してのことだ、と同級生の母親が言う。その家が在日朝鮮人の家庭であることは知っていたが、そのことが何を意味していたかを知るのには、さらに3年の年月が必要だった。知らないうちに指紋押捺問題に抵抗していて、そのことを感謝されたのだった。まだ在日朝鮮人自身が指紋押捺に反対の声をあげるには勇気が必要な時代だったし、特殊部落出身や朝鮮人というだけで要注意児童にされる時代だったので、当事者たる同級生は反対の声をあげることが出来ず、私自身が担任教諭と対立してでも反対した、というのは驚くべきことだったのだろう。

ちなみに、法医学の実習で指紋による個人識別の実習をしたときは、原資料である指紋を採取した台紙はシュレッダーにかけて焼却した。指紋と言うのはそのくらい取り扱いに注意を要するのである。今だったら実習自体が行われないであろう。しかし、1972年当時、そういうことにうるさいと、逆に睨まれたのである。


*1 Dark=Lawな人物、という評価:もちろん、この一件だけでそういう評価が下ったわけでなく、反戦教育に対して「スイスは武装中立でしょう。中立というのはコストがかかるものなんです。強さに自信が無いと中立は唱えられないんです。だから、防衛力の強化を唱える民社党の方が自民党や社会党より筋が通っています。」と言って民社党を持ち出して抵抗したりしていたので、元々邪魔な人物だったことが背景にあったと思う。12歳の当時から、両親は自民党支持なのに一人で民社党を持ち上げたり、今で言うところの新保守主義者だったのは確かであった。